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会津若松市 人財バンク

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地域紹介

会津若松市のプロフィール

会津若松市は福島県西部一帯を占める会津地方の中心都市で、会津盆地の南東部を市街地として古くから発展を見せた歴史ある都市です。江戸時代には会津藩の城下町として栄え、鶴ヶ城や飯盛山など数々の史跡・名所があり、温泉地も多数あることから観光都市としても非常に有名です。

中心市街地のひとつである七日町通りは、現在でも昔の面影を残す古い街並みの保存や復旧がされており、若き日の野口英世ゆかりの地でもあります。

四方を山に囲まれた会津盆地は猪苗代湖や磐梯山など豊かな自然と良質な水に恵まれ、県内有数の米どころ、酒どころとして古くから酒造や醸造、漆器などの地場産業、また豊かな食文化を築いてきました。

近年は半導体、光学・精密機械などの先端技術の工場もあり、会津若松市を中心とする会津若松都市圏の人口は約17万人(2012年都市雇用圏)となっています。

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会津若松市の人口

会津若松都市圏の人口は、約17万人(2012年都市雇用圏)

会津若松市の人口は、124,794人(推計人口、2012年6月1日現在)

会津若松市の歴史

都市としての会津若松市の起源は、蘆名直盛による黒川城築城に始まり、以降、城下町黒川は、戦国大名蘆名氏の拠点として、当時奥州最大の都市として発展を遂げました。 伊達氏が芦名氏を滅ぼし、黒川を新たな本拠地としましたが、豊臣秀吉の奥州仕置により蒲生氏郷が入封。氏郷は楽市楽座の施行、漆器などの手工業の振興、黒川城の近代城郭への改修などに功績を残し、地名を「若松」と改めました。 この時代、氏郷がつくり上げた城下町が現在へ至るまちの基盤となっています。氏郷の死後、上杉景勝が入封するも、関ヶ原の戦いで敗れ、徳川秀忠の子、保科正之が入封。 正之が会津松平家の祖となり、以後若松は会津藩の城下町として以降更なる発展を遂げました。

幕末、会津藩主松平容保が京都守護職に任ぜられ、京都の治安維持を担いましたが、この時、新選組が会津藩御預となり、京都市中警護を命じられました。 後に倒幕派との戊辰戦争が勃発すると、会津藩は攻撃の対象となり、新政府軍は若松城下にまで侵攻し、白虎隊の自刃などの悲劇が起ました。

明治以降、若松は市制が施行され会津若松市として復興し、現在人口約13万人の都市となりました。 今でも市内のいたるところで古い歴史や文化に触れることができます。

歴史的遺産

鶴ヶ城天守閣

蘆名直盛による黒川城築城が始まりとされています。戊辰戦争では一ヶ月の激しい攻防戦に耐えましたが明治政府の命により取り壊され昭和40年に再建、その後干飯櫓、南走長屋も復元され現在ではミュージアムとしてリニューアルされました。

茶室麟閣

千利休の子小庵が利休亡き後、蒲生氏郷に保護されていたときに建てられた茶室。鶴ヶ城本丸内に再建されています。

御薬園

殿様の別荘として使われ、会津三代藩主松平正容が薬草を栽培したことから「御薬園」の名が付けられました。現在でも約400種の薬草が植えられています。

さざえ堂(旧正宗寺三匝堂)

江戸時代中期の仏堂で螺旋状の構造で、上り下りで同じところを通らないという世界的にも珍しい建造物です。国重要文化財。

旧滝沢本陣

参勤交代や領内巡視の際の殿様の休息所。戊辰戦争では藩主松平容保が指揮をとり、白虎隊も出陣しました。今も当時の弾や刀傷が残っています。国指定史跡、国重要文化財。

松平家院内御廟

歴代会津藩主墓所。藩主保科正之の長男が亡くなった明暦3年、正之の命により開かれました。

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